Reach For Tomorrow

日々の一部始終

誰もがリフレインに涙する

アイスランドから帰ってきた後、次のセメスターが始まるまで結構期間があいてしまっていることに気づくも、本当に無為に過ごしていて、生活リズム狂うし、自己嫌悪気味。

日々の習慣が足りないなーと。

そんな中で、「繰り返す」(リフレインする)ことをぼんやり考えた。

なんで繰り返しの表現って出てくるんだろうか、そしてどうしてグッと心をつかむ瞬間があるんだろうかと今まではわかってなかったんだけど、今回ちょっと掴むきっかけとなった記事があった。

 

 

劇作家と小説家のインタビュー。途中で川上未映子が

マームの舞台のいくつもある特徴のひとつには、「日常の反復性」と、私たちを捉えて、常に/いつか、引きずり込まれてしまう「一回性」のせめぎ合いがありますよね。留めようもなく過ぎ去ってしまう1分1秒をつかまえて、それを最大限に引き伸ばして、そこになにがあるのかを確かめようとしている。だから彼らの作品は「リフレイン」という手法を使って、何回も台詞や情景を繰り返して、その繰り返しの中で出てくる差異を記録して一回性というもの、瞬間性というものに、抗っているように見える。それをまた、文字というかたちではなくて、舞台という一回性を持つかたちでやろうとしているわけですよね。そこに私は感動するし、とても美しいことだと思うし、同時にものすごく悲しいことだとも思う。なぜならやはり、すべては過ぎ去って必ず終わってしまうだろうから。そうした抗いのぜんぶが、誰も免れ得ない「有限を生きる人間の儚さ」みたいな絶対的な矛盾そのものとして響くから、マームの作品を観ると、ゆさぶられるんだと思います。 

 

なるほど、そういった意味があるのかーと。わかりやすく言語化されてて、さすが作家だなーと感心した。

 

去年、好きだった映画に「インサイド・ルーウィン・ディヴィス」があって、そのラストシーンは、過去の繰り返しとなっているようで、実はちょっと違うみたいな演出されてて、それがなんかいいなーと思ったけど、なにがいいのかイマイチわからなくてずっとモヤモヤしていた。

あれは、しみったれていて、のちに語られることのないような主人公も、きちんと生きていたということを切り取っていたのかなと思った。

このレビューも参考になった

インサイド・ルーウィン・デイヴィス名もなき男の歌 | ele-king

 

 

後、繰り返すといったらアニメの四畳半神話体系を思い出す。まだ途中までしか見てないけど。

 

 

留学始めて、自分の英語力じゃきちんと思いを伝えられない経験をたくさんする裏返しとして、自分の思いをせめて日本語ではきちんと伝えたいなーと無意識ながら思っていて、その結果として日本語の表現に対する意識の高まりとつながってるのかなーとぼんやり考えました。

グッときたって言うだけじゃ、なかなか相手に思いを伝えられないから、今後も自分の気持ちをうまく言葉に乗せられるように努力していきたい。

あと、そもそもとして英語をもっと話す機会設けないとならない。