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日々の一部始終

フランクル「夜と霧」とイーストウッド「ハドソン川の奇跡」 〜命を数えるということ〜

大学生の時間のあるうちに、きちんと名著を時間をかけて読むというのも大事なんだろうなと思って手にとって読んだ本がフランクル「夜と霧」。 内容は以前から知ってたけど、特に理由もなく読んでいなかった。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

知っている方もいらっしゃると思うが、内容を簡単に説明すると、心理学者である著者の第二次世界大戦中のナチスの強制収容所体験を綴った本になっている。人が極限の状況に追い込まれたとき、どんなことを考えて、どんな行動をとるのかが克明に記されている。

その途中でこんな文章が出てくる。

移送と決まった病気の被収容者の痩せ細った体が、二輪の荷車に無造作に積み上げられた。荷車はほかの被収容者たちによって、何キロも離れたほかの収容所まで、吹雪をついて押していかれた。死んでいても一緒に運ばれた。リスト通りでなければならないからだ。リストが至上であって、人間は被収容者番号をもっているかぎりでにおいて意味があり、文字通りただの番号なのだった。死んでいるか生きているかは問題ではない。「番号」の「命」はどうでもよかった。番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら。

 

ここを読んだときに、こないだ見たイーストウッドの「ハドソン川の奇跡」を思い出した。

あらすじとしては、不慮の事故に見舞われながらも、1人の死者も出さずにハドソン川への着水に成功させた機長をめぐる話なのだが、この映画では、フランクルが記した、強制収容所におけるナチスの人命を軽視した行動と対照的に、一人一人の人間に焦点を当てようとする。

一部の乗客に焦点を当てて、彼らがどんな人柄で、なぜこの飛行機に乗ることになったのかを90分代の映画にしてはわりとしっかり時間をかけて描く。そこではギリギリで搭乗ゲートにやってくる、旅先でのゴルフを楽しみにしている父親と息子などが描かれる。

そして、着水直後、混乱のため乗客の安否が確認できなかった機長の元に全員無事であることを報告するシーンでは、機長に向けて、ただ「全員無事」と言うのではなく、「155人だ」と伝えられる。

そのときの「155人だ」というセリフからは、ただの数字ではなく、番号の背後にある、一人一人の人間が生き延びたことが伝わって胸を打たれた。

そのことを「夜と霧」を見て思い出した。

 

ニュースでは伝わらない数字の背後にある物語を届けるということは、表現に求められている役割の一つなのだと改めて。

村上春樹が卵と壁のスピーチでも似たようなことを言っていて、それを高校生の時に読んで以来そういったことは常にぼんやりと自分の頭の中にある気がする。

 

私が小説を書く理由は一つしかありません。

それは個々の魂の尊厳を浮き彫りにし、光をあてるためなのです。

物語の目的は警鐘を鳴らすことです。

システムが我々の魂をその蜘蛛の糸の中に絡め取り、貶めるのを防ぐために、システムに常に目を光らせているように。

私は、物語を通じて、人々の魂がかけがえのないものであることを示し続けることが作家の義務であることを信じて疑いません。

 

「ハドソン川の奇跡」に関しては、愛読している青春ゾンビの感想が素晴らしいのでこちらもぜひ。

hiko1985.hatenablog.com