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日々の一部始終

長谷正人編集「映像文化の社会学」

早稲田で「テレビ文化論」などの人気授業を担当していたり、タマフルでもゲストで登場したことがある長谷正人 が編集を務めている「映像文化の社会学」という教科書を読んだ。

映像文化の社会学

映像文化の社会学

 

どんな本かは、はじがきで書かれている部分を引用する。

映画や写真を、ただ娯楽や芸術として味わって終わらせるのではなく、そもそもなぜ人間が多様な映像文化を自らつくりだし、楽しもうとしてきたのかを考え、人類の社会生活の歴史のなかで位置づけ直すこと。そのような社会学的な思考のきっかけを読者のみなさんに提供することを目的にしています。

去年出版された本なので、セルフィーやインスタグラムについても言及されているし、あくまで教科書なので、難解な説明や筆者固有の主張は極力省かれている印象で読みやすい。

最近の自分の問題意識として、せっかく映画や小説が好きなら、それらを多角的に楽しめるための引き出しをもっと増やしたいというものがあったので、この本は自分のそういった意識にぴったりの教科書だった。

ここで知ったことをいくつか整理しておきたい。

観客中心的な視点から見た映画の歴史

これはおおよそ3つに分けられる

  1. アトラクションの映画
  2. 古典的映画
  3. ポスト古典的映画

 1は、1895年のリュミエール兄弟の最初の上映会から1920年代末のサイレント映画の時代くらいまでに支配的だった、テクノロジーとしての<視聴的効果>で観客を楽しませるような映画を指す。

 2は、トーキー映画が普及した1930年代初頭から1960年代半ばまでを支配した、派手な視覚的効果に頼ることなく、観客による<物語>の主人公への強い心理的感情移入を引き起こすような工夫がなされた映画を指す。

 3は、それ以降から現代までの、物語的な感動は残しつつも、SFXや3Dなど特殊効果技術による<視覚効果>を利用して観客を喜ばすような工夫が凝らされるようになった映画を指す。

 これは言われたら、そうだなと思う。初めて小津や成瀬といった日本映画の巨匠と讃えられるような監督の作品を見たときにピンとこないのは、普段見る映画が3のような映画が中心だったので、2のような映画をどう見ていいのかわからなかったことに原因があるのかなと思った。

ベンヤミンから連なる映画分析の系譜

 ベンヤミンの「アウラ」の話を引用しつつ、映画分析の系譜の一つについて、

映画が観客に日常生活のなかでは見えていなかった無意識的世界を知覚させることに社会的現実の変革可能性を見出すような議論がある。

と書かれている。これはちょっと一読しただけだと難しいけど、その後の説明で腑に落ちた。そこでは

映画は、私たちの日常世界を、カットごとにめまぐるしく視点を変えて、バラバラに分解して観客に見せてくれる。そのように、既存の社会的な意味から自由に解き放たれた日常生活の光景を見ることは、観客が自ら活動する世界を現実の制約を超えて想像的に押し広げることになるのではないか。たとえば、スローモーションが、人間がゆったりと浮遊しているような光景を見せてくれ、クローズアップが事物の微細に変化し続ける表情を教えてくれるように、私たちはカメラの力を通して現実世界の新たな相貌に接近できるようになるのだ。

 

 これは、映画の鑑賞後の感想でよくある、「映画を見る前と見た後でちょっと世界が違ってみえる」という現象を抽象度高めに言語化したものだと思った。

 

 こんな感じで映画だけだなく、写真やテレビについてもその特性が分かりやすく説明されているので、ちょっと理論的なことを勉強したいと思っている人には勧めたい一冊です。